実家へ向かう道を、私は今でも覚えている。
駅前の古い商店街を抜け、小さな川沿いを歩き、角の八百屋を曲がる。
子どもの頃から何百回も通った道だった。
だが今、その道を歩くたび、胸の奥に少し重たいものが残る。
家が、空き家になってしまったからだ。
父が亡くなり、その数年後に母も亡くなった。
それから実家には、誰も住んでいない。
雨戸は閉まり、庭の雑草は少しずつ伸びていく。
郵便受けにはチラシが溜まり、玄関前の植木鉢は乾いたまま動かない。
それでも私は月に一度、その家へ行く。
換気をして、草を抜き、仏壇に線香をあげる。
もう誰も帰ってこない家なのに。
本当は分かっている。
このままではいけないことくらい。
空き家を維持するのは簡単ではない。
固定資産税もかかる。
老朽化も進む。
誰も住まない家は、驚くほど早く傷んでいく。
私は不動産売却の仕事をしている。
だから空き家問題の現実もよく知っている。
倒壊リスク。
近隣トラブル。
雑草苦情。
雨漏り。
害虫。
現場で何度も見てきた。
だから、本来ならもっと早く決断するべきなのだ。
売却するのか。
解体するのか。
しかし、どうしても動けなかった。
理由は単純だった。
実家を壊すことに、強い罪悪感があったからだ。
玄関を開けるたび、私は今でも少しだけ「お邪魔します」と言ってしまう。
誰もいないのに。
居間には古い時計が掛かったままだ。
父が座っていた椅子。
母の好きだった湯呑み。
仏壇の横に置かれた家族写真。
時間だけが、静かに止まっている。
不思議なことに、人が住まなくなった家には、まだ“気配”が残る。
完全な空っぽにはならない。
台所へ立つと、母が夕飯を作っている気がする。
冬の夕方、味噌汁の湯気が上がっていた光景を思い出す。
居間へ行けば、父が新聞を読んでいるような気がする。
テレビの音。
笑い声。
何気ない会話。
そういうものが、家の中にはまだ漂っている。
だから壊せない。
空き家相談を受けていると、同じことを話す人は多い。
「まだ親がいる気がするんです」
「売ってしまったら、本当に親がいなくなる気がして…」
「解体するなんて、親不孝な気がする」
私はその気持ちがよく分かる。
日本人にとって「家」は、単なる建物ではないからだ。
人生そのものなのだと思う。
特に昭和世代の親たちは、「家を持つ」ということに大きな意味を持っていた。
長い住宅ローン。
休日の庭仕事。
壁の修理。
雨どい掃除。
父たちは家を守っていた。
家族の場所を守るように。
母たちは毎日掃除をし、畳を拭き、仏壇に手を合わせていた。
その積み重ねが、「実家」という空気を作っていた。
だから子ども世代は、その家を終わらせることに強い抵抗を感じる。
まるで親の人生を、自分の代で終わらせるような気がしてしまうのだ。
実際、「親不孝感」に苦しむ人は多い。
実家を売ること。
解体すること。
それがどこか、「親を裏切る行為」に感じてしまう。
しかし現実として、空き家は残り続ける。
日本では今、空き家が急増している。
少子高齢化。
人口減少。
地方衰退。
ニュースではそう説明される。
もちろん、それも事実だ。
だが私は思う。
空き家問題の本質は、数字ではない。
感情なのだ。
人は、家を手放せないのではない。
その家に残っている「時間」を終わらせられないのだ。
私は以前、実家解体に立ち会った女性を忘れられない。
築六十年を超えた木造住宅だった。
庭には柿の木があり、玄関には古い表札が残っていた。
解体の日、その女性は朝から黙って家を見ていた。
重機が壁を壊した瞬間、その人は小さく泣いた。
「帰る場所がなくなっちゃうんですね」
私は、その言葉が今でも耳に残っている。
実家とは、「帰る場所」なのだ。
たとえ誰も住んでいなくても。
親が亡くなっていても。
そこに家があるだけで、人はどこか安心している。
だから壊せない。
だが現実は、静かに進んでいく。
屋根は傷み、庭木は伸び、家は少しずつ老いていく。
空き家を維持するには、時間もお金も必要だ。
遠方ならなおさら難しい。
だから多くの人が苦しむ。
「残したい」という感情と、「維持できない」という現実の間で。
私は不動産売却の仕事をしているが、「早く売ったほうがいい」とだけは言いたくない。
もちろん早期対応が必要なケースは多い。
しかし感情を無視した決断は、あとに深い後悔を残す。
だから私は、まず話を聞くようにしている。
どんな家だったのか。
誰が住んでいたのか。
どんな思い出があるのか。
そこを理解しなければ、本当の意味で空き家問題には向き合えないと思っている。
空き家問題とは、人生整理なのだ。
親との別れ。
子ども時代との別れ。
家族の時間との別れ。
だから苦しい。
だから時間がかかる。
実家を解体する時、多くの人が涙を流す。
それは建物が壊れるからではない。
思い出の形が消えていくからだ。
居間。
台所。
縁側。
階段。
そういう場所に、人は記憶を残している。
だから解体とは、記憶に触れる行為でもある。
私自身、まだ完全には整理できていない。
今でも実家へ行くと、少し安心する。
誰もいない家なのに、「帰ってきた」と感じてしまう。
それくらい、「家」は人の心に深く残る。
だから私は、空き家を手放せない人を責められない。
合理性だけで動けないのが、人間なのだと思う。
特に、日本人にとって実家は特別だ。
仏壇。
畳。
古い柱。
庭木。
どれも単なる物ではない。
家族の歴史そのものなのだ。
だから苦しい。
だから迷う。
だが私は思う。
実家を売ることは、親を捨てることではない。
解体することも、思い出を否定することではない。
本当に大切なのは、「向き合うこと」なのだと思う。
放置し続けることではなく、家族で話し合うこと。
悩みを共有すること。
思い出を振り返ること。
そのうえで決断すること。
それが、本当の意味での「実家じまい」なのかもしれない。
家がなくなっても、思い出は消えない。
父が庭木を切っていた背中。
母の料理の匂い。
家族で笑った夜。
それらは、これからも心の中に残り続ける。
だから私は今日も思う。
空き家問題の本質は、不動産ではない。
人の感情なのだと。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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