「そのタンスだけは、まだ開けていないんです。」
ご相談者様はそう言って、少し視線を落とされました。
名古屋市内にお住まいの50代の女性でした。
お母様が亡くなってから、すでに3年が経っていました。
実家は空き家になっています。
売却を考えている。
遺品整理も進めなければいけない。
頭では分かっている。
けれど、一つだけ手を付けられない場所がある。
それが、お母様の部屋に置かれた古い桐ダンスでした。
遺品整理は片付けではない
空き家の相談を受けていると、多くの方がこう言います。
「遺品整理が進まなくて。」
けれど実際には、片付けができないのではありません。
気持ちの整理ができないのです。
服を捨てることはできる。
食器も処分できる。
家具も手放せる。
しかし、ある物だけはどうしても手を付けられない。
そんなことがあります。
それは単なる物ではなく、その人との思い出そのものだからです。
母の部屋だけ時間が止まっていた
ご実家へ伺った日。
家の中はある程度片付いていました。
居間も整理されている。
台所もきれいになっている。
押入れの中も空になっていました。
しかし二階の奥にあるお母様の部屋だけは違いました。
まるで昨日までそこに住んでいたかのようでした。
鏡台。
古い時計。
座布団。
そして窓際には桐ダンス。
時間が止まったような空間でした。
「母はこのタンスを大切にしていました」
そのタンスは、お母様が嫁入りの時に持ってきたものだったそうです。
何十年も前。
まだ若かった頃。
祖父母が持たせてくれた大切な嫁入り道具でした。
お母様は生前、そのタンスをとても大切にしていたそうです。
傷が付けば磨く。
湿気が多い日は気にする。
何度引っ越しても手放さなかった。
そんな話を聞きました。
開けられない理由
「何が入っているか分からないんです。」
娘様はそう言いました。
しかし本当は違いました。
何が入っているかが怖いのではありません。
母との思い出が出てくることが怖かったのです。
タンスを開ければ、
母の服がある。
母の匂いが残っているかもしれない。
母の字で書かれた何かが出てくるかもしれない。
そう考えると手が止まる。
それはとても自然な感情です。
3年間開けられなかった引き出し
お母様が亡くなった後、何度も挑戦したそうです。
部屋へ入る。
タンスの前に立つ。
引き出しに手を掛ける。
でも開けられない。
そして部屋を出る。
その繰り返しでした。
3年間です。
長いようで短い。
短いようで長い時間でした。
空き家は感情を残していく
空き家の現場ではよくあります。
仏壇を整理できない。
父の机を捨てられない。
母の部屋に入れない。
理由はどれも同じです。
物を処分することが、その人を忘れることのように感じてしまうのです。
本当は違うのに。
頭では分かっているのに。
心が追いつかない。
ある日の決意
売却の話が具体的になった頃でした。
娘様はこう言いました。
「母も片付けてほしいと思っていますよね。」
誰かに言われたわけではありません。
自分自身で出した答えでした。
そしてついにタンスを開ける日が来ました。
引き出しの中にあったもの
最初の引き出しには着物が入っていました。
きれいに畳まれています。
次の引き出しにはハンカチや小物。
さらに開けると古い写真。
家族旅行の写真。
子どもたちの写真。
どれも大切に保管されていました。
娘様は一枚一枚手に取りながら見ていました。
涙も流れていました。
けれど不思議と表情は穏やかでした。
一番奥から出てきた封筒
そして最後の引き出しでした。
奥の方に一つの封筒がありました。
特別なものではありません。
どこにでもある茶封筒です。
そこにはお母様の字で、
「子どもたちへ」
と書かれていました。
娘様は驚いていました。
もちろん私も驚きました。
母からの最後の手紙
封筒の中には短い手紙が入っていました。
長い文章ではありません。
けれど、その一文字一文字にお母様らしさがありました。
子どもたちへの感謝。
家族への想い。
健康を願う言葉。
そして最後に、
「仲良くしてください。」
と書かれていました。
涙の理由
娘様はしばらく泣いていました。
悲しいからではありません。
ようやく会えた気がしたからです。
亡くなって3年。
ずっと会いたかった母。
その母の言葉がそこにありました。
タンスを開けることを恐れていた。
しかし開けたことで、最後の贈り物に出会えたのです。
遺品整理の向こう側
私はその時改めて思いました。
遺品整理とは何だろうと。
不要な物を捨てることではありません。
部屋を空にすることでもありません。
残された人が、亡くなった人との時間を整理する作業なのだと思います。
だから簡単には終わりません。
時間が掛かるのです。
母はタンスの中にいたわけではない
後日、娘様はこう話してくださいました。
「やっと整理できそうです。」
不思議なことです。
タンスを開ける前は、母がそこにいる気がしていました。
しかし実際に開けてみると違いました。
母はタンスの中にいたわけではありません。
娘様の記憶の中にいたのです。
売却の日
最終的に実家は売却されました。
母の部屋も空になりました。
タンスもありません。
けれど娘様は笑顔でした。
「あの手紙が見つかってよかった。」
そう話していました。
もし売却を決断していなければ。
もし遺品整理をしていなければ。
その手紙は見つからなかったかもしれません。
まとめ
遺品整理が進まない。
空き家を片付けられない。
そう悩んでいる方は少なくありません。
けれど、それは弱さではありません。
それだけ大切な人だったということです。
思い出があるということです。
だから急がなくてもいい。
無理に忘れなくてもいい。
ただ、いつか向き合う日が来た時には、一歩だけ前へ進んでみてください。
その先に、思いがけない贈り物が待っていることがあります。
空き家マイスターが見たリアルな現実
誰も開けられなかった母のタンス。
そこに入っていたのは着物でも写真でもありませんでした。
本当に残されていたのは、
「子どもたちへ」
という母の想いでした。
遺品整理とは、物を整理することではない。
残された人が、愛された記憶を受け取る時間なのかもしれません。
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